ビジコン社の歴史


History of Busicom Corp




Busicom社の歴史
1918小島和三郎中国(旧満州の奉天)において昌和洋行を設立し、輸入業を始め成功する。
1942富士星計算器製作所設立。
1943
機械式手動計算機の開発に成功する。
1945富士星計算器製作所を日本計算器(株)に改組、改称する。
1949頃
製品を「富士星計算器」の商品名で売り出す。
(1950年には商標を「日本計算器」に改める。
1956
機械式手動計算機SM-21型発売。飛躍的な売り上げの伸長を実現した。
1957(株)昌和商店から計算機の販売部門を分離、日本計算器販売(株)を設立。
1960小島義雄が日本計算器販売(株)の社長に就任。
1961
ロンドン博覧会でANITA MK-8が発表される。
1963
機械式手動計算機HL-21型発売。
1964小島義雄が日本計算器(株)の社長に就任。小島義雄が日本計算器(株)の社長に就任。
1965
トランジスター・ダイオード電卓、ユニコン160を発売。
1966
電子式卓上計算機、新製品ビジコン161を発売。
1968日本計算器(株)、日本計算器販売(株)、三菱電機(株)の共同出資により電子技研工業(株)が設立される。
1969
米国INTEL社とマイクロコンピュータに関するProvisional Agreementを締結する。
1970日本計算器販売(株)、商号変更によりビジコン株式会社となる。INTEL社と世界最初のマイクロコンピューターの協同開発と独占使用契約を結ぶ。
MOSTEK社と計算機用ワンチップLSIの協同開発に関するLetter of Intentを交わす。。
1971ビジコン(株)と電子技研工業(株)が合併。世界で最初の計算機用ワンチップLSIを米国MOSTEK社と完成。このLSIを使した世界最初、最小の12桁ポッケト計算機ビジコン ハンデイLE-120 (BUSICOM HANDY LE) およびハンディLC-120 (HANDY LC) をニューヨークと東京で同時発表。
米国INTEL社と世界で最初のマイクロコンピューター"MCS4"を共同開発。翌年、同チップを使用したビジコン141PFを発売する。
1974ビジコン(株)倒産。

(参考文献)並川宏彦「日本計算器(株)の計算機製造のあゆみ」大阪の産業記念物 第11号 1989年3月

ビジコンの事業経歴

 電卓の発展の中でビジコン社ほど大きな貢献をした企業は少ない。同社は電卓戦争の中で1974年に倒産したが現在も台東区浅草橋に事務所を構え、業務を行っている。今回、ビジコン社の小島義雄社長にビジコン社の歴史、製品についてお話をうかがうことができた。以下はその内容を整理したものである。短い時間に多くのことをお聞きしたので、誤りも多いと思うが、文責はすべて筆者にある。貴重なお時間をさいていただいた小島義雄社長に感謝したい。(2003年11月)

1 ビジコン社の発祥
 日本計算器(後のビジコン社)の創始者は小島和三郎である。彼は1918年、中国(旧満州)の奉天で「昌和洋行」(後の「昌和商店」)を設立。計算機、タイプライターなどの事務機械や文具のほか、自動車、自転車、タイヤなどの車両関連商品の輸入販売を行い、大きな成功をおさめた。和三郎は計算機に大変な情熱を持っており、タイガー計算器を退職した平田勝次郎を雇い1942年に富士星計算器製作所を設立(1945年に日本計算器(株)に改称)し、手回し式計算機の製造販売を行った。その後、1957年に昌和商店から計算機の販売部門が分離され、日本計算器販売(株)が設立された。日本計算器販売(株)は、日本計算機の製品の他、三菱電機のMELCOM計算機、米国SMCタイプライターなどの製品を扱うとともに、計算機センターを発足させ、ソフト、ハード両面のサービス体制を構築した。1970年には、商号と商品イメージと統一させるため、日本計算器販売(株)はビジコン(株)に社名変更される。

2 小島義雄社長
 小島義雄は、1924年に旧満州国の大連で生まれ1950年に京都大学を卒業後、父和三郎が興した「日本計算器」に入社。1960年若干36歳の若さで「日本計算器販売」の社長に就任した。小島社長は、1961年10月に開催されたロンドン博覧会で、英国のサムロック・コンプトメーター社が開発した世界で最初の真空管を使った電卓アニタ・マーク8を見つけ日本に輸入、紹介した。アニタ・マーク8は高価で日本ではあまり売れなかったが、日本のメーカーの刺激になり、その後シャープのCS-10Aやキャノーラ130の開発に結びついた点で大きな役割を果たした。

3 ビジコン161
 その後、ビジコン社は、1966年に高性能電卓「ビジコン161」を発売する。ビジコン161はイタリアのメーカーが開発した超小型コアメモリーの技術を採用することで、16桁の加減乗除と平方根の計算が可能、しかもメモリーがついた高性能電卓にもかかわらず298,000円という驚異的な安さを実現した(当時のシャープの電卓 コンペット21A は14桁の加減乗除のメモリーなしで435,000円であった)。小島社長はビジコン161発表に当たって他社製品の性能と価格の比較表とともに、「日本計算器ビジコン161の出現で、これまで電子式卓上計算機に15万円も余計にお払いになっていたことになります」という非常に挑発的なキャッチフレーズをつけた広告を掲載した。これに対し先発メーカーと通産省は強く反発し、問題となった。この後電卓市場においてはメーカー間の激烈な競争が展開する。ビジコン161をめぐる争いは日本の電卓市場においてまさに電卓戦争開始される段階で生じた象徴的なできごとであったといえる。 ビジコン161

4 インテルとビジコンの共同開発
 その後、ビジコン社は電卓用のチップの開発に取り組む。1969年4月に当時新興企業であったINTEL社とマイクロコンピュータ開発に関する 仮契約を結び、翌年2月に本契約を結ぶ。この契約では、INTEL社がビジコン社の要請を受けて設計製造する4個のLSIについて、両社が共同して開発にあたること、開発費用としてビジコン社が10万ドルをINTEL社に支払うこと、開発された製品はビジコン社が販売権を独占するということが取り決められた。ビジコン社はこの契約に基づき自社で設計した論理回路をINTEL社に示した。この論理回路を持って3人のビジコン社員が渡米するが、その中の一人が嶋正利である。嶋はテッド・ホフやフェデリコ・ファジンなどINTELの技術者と共同で1971年3月に4004を完成する(嶋はその後INTEL社に移り8008の開発も担当することになる)。契約から3年後の1973年4月には両社の間で契約の修正が行われ、ビジコン社は独占販売権を放棄する一方、INTEL社はチップ販売権の5%をビジコン社に支払うことが合意された。
 4004の開発の成功を受け、ビジコン社は1972年に4004を搭載した電卓 141PF を発売する。この電卓は、マイクロ・プロセッサを搭載しているため、ROMによるプログラムを追加するだけで新しい機能を追加することができた。
4004 (Intel)


141-PF

5 ワンチップ電卓用LSIの開発
 ビジコン社はINTEL社との共同開発と平行して1970年からモステック社との間でもワンチップ電卓用LSIの共同開発を進めた。モステック社は、テキサスインスツルメンツ社のMOSテクノロジー・ディビジョンからスピンアウトした14人の若者が作った会社で、当時イオン注入法という最新技術を採用し大きな成果をあげていた。開発に当たってはビジコン社は論理部分を担当し、同社の製品であるビジコン120をシュミレーターにして開発を行い、それをモステックがワンチップLSIにした。野心的な若者たちの必死の努力により開発は着手からわずか6ヶ月で完了した。このチップにより、ビジコン社は1971年には当時としては驚異的な小ささの手のひらサイズの電卓「ビジコンLE-120A」を発売し、センセーションを巻き起こした。これが世界で初めてのワンチップLSIを使った電卓である。その後テキサスインスツルメンツ社からも電卓用のワンチップLSIが発売され、電卓の小型化、薄型化、軽量化、低価格化が一気に進むことになる。ビジコン社は、このワンチップLSIの開発により、全世界のメーカーが先を争って実現を目指していた真の意味でのポケット電卓を世界で始めて実現する栄誉を手にする。 LE-120A

6 ビジコン社成功の理由
 このようにビジコン社が大きな貢献をした理由としては、小島社長をはじめとする当時のビジコン社が電卓の将来ビジョンをしっかり持ち、その実現に向け全社一体となって邁進したこと以外に、同社の経営スタイルが電卓の開発に非常にプラスしたことがある。
 同社は、カシオ計算機、栄光ビジネスマシンとともに当時としては数少ない計算機専業メーカーであった。また、同社は電卓だけでなく、機械式手動計算機の製造や三菱電機の電子計算機の販売、保守、海外から多く計算機を輸入し販売していた。当時、日立、松下、東芝をはじめとした大手の電機メーカーも電卓の製造を行っていたが、こうした大メーカーにとっては電卓の経営上のウエイトはそれほど大きくはなく、人材、資金面で必ずしも十分な対応は行われなかった。こうしたメーカーでは、電卓分野の競争が激しくなる中で、より利益率の高い分野に経営の重点が移された。
 これに対し計算機の専業メーカーにおいては、社内の優秀な人材を計算機の開発、製造に配置し、全社をあげて取り組むことが可能であった。これとともにビジコン社の場合、手動式計算機を製造し多大な利益を得ていたためその利益を電卓の開発に当てることができた。(あまり知られていないが、1970年当時ビジコン社は手動式卓上計算機で世界一のシェアを誇っていた)。また、精密な機械式計算機を製造する技術はそのまま電卓の製造に役立った。
 さらに海外の電子計算機の輸入で作り上げたネットワークは、電卓の輸出体制を整備する上で役立っただけではなく、電卓の開発に当たって海外メーカーとの技術提携や技術導入の面でも大きな役割を果たした。とりわけ重要なのは、同社が三菱電機のコンピュータの販売、保守を行っており、計算機センターも持っていたことである。このため社内には電子計算機の知識、素養を持った社員も多く、こうした中でストアードプログラムやチップの開発などといった発想が生まれた。
 すなわち、電卓分野に進出した数多くの企業の中で、ビジコン社が技術面で常にリードすることができたのは単なる偶然ではなく十分な理由があった。

7 ビジコン社の倒産
 こうしためざましい発展を遂げたビジコン社ではあるが、その後逆風が吹く。同社は主要取引先である三菱電機がコンピュータ事業から撤収したことや、電卓の価格の激烈な低下が同社の収益基盤であった手動式計算機部門を直撃したこと、ニクソンショックによる円高で輸出が激減したことなどによりビジコン社は1974年2月に倒産した。同社が電卓を製造した期間は10年にも満たないが、同社が電卓の発展に果たした役割は大きい。 ビジコン社倒産の新聞記事




Busicom 161

1966年7月発売された日本で最初の超小型コアメモリーを採用した電卓。
ビジコン社は当時コアメモリーの権威であった大阪大学基礎工学の桜井良文教授の指導をあおぎながら10進コアメモリーの研究を続け、提携関係にあったイタリアのモンティ・カティーニ・エジソンが開発したIMEという計算機の特許を購入することで161開発に成功した。
この結果、電卓の製造コストを大幅に削減することに成功し、当時40万円前後であった電卓の市場価格を298,000円まで低下させた。
ビジコン社はビジコン161発表に当たって、他社製品の性能と価格の比較表をもとに、「日本計算機ビジコン161の出現で、これまで電子式卓上計算機に15万円も余計にお払いになっていたことになります」という非常に挑発的な広告を掲載し話題となった。
161 は価格が一気に30万円を切ったことから爆発的に売れ、電卓は会社に一台から各課に一台の時代になった。161の発売をきっかけとして電卓の価格競争が切っておとされた。

日本経済新聞広告
1966年7月4日


Busicom 161
当時の電卓の価格と性能 - 当時いかに161が優れた性能価格比を達成していたかわかる。


Price
Degits
+−×÷+M
Busicom 161Busicom298,000161615816
Toscal 1001Toshiba360,000101010--
Canola 30Canon360,000131311--
Canola 161Canon445,000161614-16
Compet 21ASharp435,0001414136-
Compet 30ASharp425,000141413-14
Casio 001Casio380,00010209-10
Casio Root 100Casio435,00010209910

Busicom LE-120A

(世界初のポケット電卓)
 Busicom LE-120Aは、モステック社とビジコン社が共同開発した世界で最初のワンチップ電卓用チップ MK6010 を搭載した世界で最初のポケットサイズ電卓である。
 LE-120Aは小さいだけでなく、2つの先進的特徴を持っていた。一つは発光ダイオードの使用であり、もう一つは単3電池の使用である。
 発光ダイオードによる表示装置は、モンサント社により実用化されたもので、世界最初の実用発光ダイオードであった。これをワンチップLSIと組み合わせることによって乾電池駆動の実用ポケット電卓が完成し、「手のひらコンピュータ」というキャッチフレーズで売り出された。
 1971年1月に発売されたあと大きな反響を呼び話題になったことから89,800円と非常に高価にもかかわらず(当時の大卒の初任給は46,500円)国内外とも爆発的に売れた。当時イランのパーレビ国王やギリシャの大船主のオナシスもLE-120Aを大量に購入したといわれるが、何かのセレモニーの参加者に配る記念品として大量に購入したのかもしれない。
 LE-120Aは、電卓の小型化の観点からキーの小型化にも力を入れた。当時の産業解剖学の観点から様々な実験を行い、電卓操作に影響が生じない小型のキーを開発した。その点でLE-120A はキーについても先進的な電卓といえる。しかしこのボタンは旧型の大きな電卓に慣れている人々には非常に小さく感じられた。このためビジコン社はボタンを押すためのペンをつけて販売した。
 電源 単三4本。 サイズ 64mm(W)-123mm(D)-22mm(H)。価格 89,800円。

Busicom LE-120A






Phote courtecy : Busicom Corp

Busicom LC-120

(世界初の液晶電卓)
LE-120Aの表示は発光ダイオードだったが、ビジコン社はLE-120Aと同じ1971年1月、世界最初の液晶表示を使った電卓LC-120を発表した。この液晶は旭硝子のガラスを使い、ビジコン社が製作したものであるが、こちらの方は液晶の安定性が確保されなかったため商品化されなかった。





141-PF

 141-PFは、世界で最初のマイクロプロセッサIntel 4004開発のきっかけとなった電卓である。
当時いくつもの企業へ電卓のOEM製造を行っていたビジコン社は、OEMの相手先ごとに様々な電卓とそれに用いるICチップを作り変える必要があった。しかしこれにはたいへんな人手と時間を要し、ICチップメーカーも製造を引き受けたがらなかった。このためビジコン社は電卓の機能の変更について、ICチップの設計変更などハード面の対応ではなく、プログラムの変更というソフト面の変更で対応する方式をとることを考えた(これがいわゆる「ストアード・プログラミング方式」である)。このため同社は、当時新興のインテル社とこうした電卓を実現するために必要なLSI の設計製造契約を結び、同社が設計した論理回路をもたせ3名の社員をインテル社に派遣した。このチップの開発過程で世界で最初のマイクロ・プロセッサ4004は完成した。すなわち世界で最初のマイクロプロセッサは、米国インテル社とわが国のビジコン社の協同開発により完成したといっても過言ではない。この4004を世界で初めて搭載した電卓が141PFである。この電卓は、マイクロ・プロセッサを搭載しているため、ROMによるプログラムを追加するだけで新しい機能を追加することができた。また、この電卓は、電卓用としては比較的大容量のRAMが使用可能だったため、最高8ストロークのキーボード用入力バッファが設けられており、印字中でもキー入力ができるという当時としては先進的な機能も有していた。
1972年発売。159,800円。

Busicom 141-PF





4004 (Intel)

(世界初のマイクロコンピュータ)
 世界で最初のマイクロプロセッサ。日本の電卓メーカー、ビジコン社の依頼を受けインテル社により開発、生産された。
当時いくつもの企業へ電卓のOEM製造を行っていたビジコン社は、OEMの相手先ごとに異なった仕様の電卓を製造していたが、それに伴いICチップも別個に製造する必要があった。しかしこれにはたいへんな人手と時間を要し、ICチップメーカーも製造を引き受けたがらなかった。こうしたことからビジコン社は電卓の機能の変更について、ICチップの設計変更などハード面の対応ではなく、プログラムの変更というソフト面の変更で対応する方式をとることを考えた(これがいわゆる「ストアード・プログラミング方式」である)。
 こうした方式の電卓向けチップを開発するため同社は、1969年4月に当時新興企業であったINTEL社とマイクロコンピュータ開発に関する 仮契約を結び、翌年2月に本契約を結ぶ。この契約では、INTEL社がビジコン社の要請を受けて設計製造する4個のLSIについて、両社が共同して開発にあたること、開発費用としてビジコン社が10万ドルをINTEL社に支払うこと、開発された製品はビジコン社が販売権を独占するということが取り決められた。
 ビジコン社はこの契約に基づき自社で設計した論理回路をINTEL社に示した。この論理回路を持って3人のビジコン社員が渡米するが、その中の一人が嶋正利である。嶋はテッド・ホフやフェデリコ・ファジンなどINTELの技術者と共同で1971年3月に4004を完成した。契約から3年後の1973年4月には両社の間で契約の修正が行われ、ビジコン社は独占販売権を放棄する一方、INTEL社はチップ販売権の5%をビジコン社に支払うことが合意された。
小島社長は当時マイクロプロセッサーのパテントをとることを真剣に考えていたが、結果的には申請をしなかった。もし申請していれば莫大な特許料収入がビジコン社に入ったことになる。特許をとらなかったことはビジコン社にとって残念なことであるが、特許料をとらなかったことが結果として現在のマイコンの普及につながった点は評価されるべきである。

4004





Card Alarm

 1974年の倒産の後、ビジコン社は1975年10月ビジコンプリンター ハンディーの輸出を主体として事業を再開、
○マルチ回線対応のパソコン通信用のソフトウェアとハードウェアであるBBSホスト・システム「BIG−MODELシリーズ」
○NEC98シリーズ対応の「インテリジェントRS−232Cインターフェイス拡張ボード」、「マルチサーバーチャンネル2/4」
○高性能集合モデム「OMNI−VERSA2400A」
○LCD表示機能付き株式投資用のターミナル
○メール・ボックス機能付きモデム
○ポケット星占い機
○電卓付きバインダーノート
○時計カードラジオ
などの製品を発売した。
 写真はビジコン社が1986年6月に発売したカードアラームクロック 418 。




開発過程の電卓 (塚本コレクション)

ビジコン社の電卓開発の担当者であった塚本勝氏の所蔵品。全て開発段階の試作品で特にEXEC 120-DNは市販されなかった希少な電卓である。(→ 塚本勝氏のホームページ

プロトタイプモデル


本ページの作成に当たってビジコン社社長の小島義雄氏に様々な資料のご提供や適切なご助言をいただきました。
また塚本勝氏からは貴重な資料を貸していただきました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。