機械式計算機 (Mechanical calculator)

    電卓が普及する前までは計算はもっぱらそろばんと機械式計算機で行われていた。1642年には、Pascalが歯車の組み合わせで計算する加算機を発明。1671年には、Leibniz が加算の繰り返しで乗算を、減算の繰り返しで除算を行うという原理を考案、機械化に成功した。この Leibnizの原理に工夫を加え、1886年、Odhner が計算機の商品化に成功、現在使用している計算機械の元祖となった。
    日本で生産された機械式計算機の第1号は1901年に矢部良一が製作した「パテント・ヤズ・アリスモメートル」である。これは、日本に古来からある算木やそろばんを手回し式計算機に置き換えたもので、当時の外国製の機械式計算機と全く発想を異にした計算機だった。

    日本の機械式計算機の歴史については、門倉克矩氏のThe History of Japanese Calculatorsが詳しい。



タイガー計算機

タイガー計算機は、1923年大本寅治郎により発明された。その計算機は彼の名をとって「虎印計算機」を命名された。虎印計算機の原理は当時のオドナー式計算機の原理と基本的に同じものであるが、大本本人がこの計算機の情報を得ていたかどうかはわからない。発売当初は2階建ての家が買えるほど高価なものであった。虎印計算機の完成後しばらくして虎印は「TIGER BRAND」に、大本鉄工所はタイガー計算機製作所と改称された。タイガー計算機は、価格の低下とともに出荷数が順調に増加し68年頃のピーク時で年間4万台に達した。当時はライバルメーカーも多くあったが、タイガー計算機の知名度は抜群で他メーカーのものもみなタイガー計算機と呼ばれていた。

特装型18号

1954年製。右ダイヤル桁数18桁。





H62-20









H62-20に使われている様々なパーツ






H68-21

1968年以降作られたタイガー計算機の最終型。
右ダイヤル桁数21桁。連乗機能を持っているタイプ。
カバーや置数レバーはプラスチック製となっている。

H68-S

H68-21と同じく1968年以降に製造されたもの。
H68-21と異なり連乗機能はついていない。



 日本計算機

日本計算機は機械式計算機の市場でタイガー計算機と並んで大きなシェアを持っていた企業である。
 同社は事務用機器などを製造販売していた「昌和洋行」の子会社として昭和17年に設立された。設立当初より計算機の研究・試作に取り組み、昭和19年に計算機の国産化に成功した。その後、同社は様々な機種の開発を行い、昭和31年には手動式計算機の決定版ともいえるSM-21 開発し、飛躍的な売り上げを実現した。また、昭和39年にはSM-21型を改良したHL-21 型を生産、販売した。
HL-21

SM-21

1956年に発表、販売された。
357(W)×130(H)×170(D)mm。
7.4kg。
当時の価格は35,000円。

PILOT計算機

PILOT計算機は、1961年キーバー計算機をPILOTが買収してできたものでP−1、P-3型が製造販売された。これらの計算機は当時の国産計算機の中で最も小型であったことからしばしば自動車に積み込まれラリー競技に使われた。

P-3型

1967年に発売された。当時の価格は28,000円。

1967年3月6日日本経済新聞の広告。




ラリー競技に使われたもの。
夜間車内で使用するため、防眩の為黒く塗られていた。
上部に「TEAM FALCO」というネームテープが貼ってある。


東芝計算機

 かって「ブルースター計算機」を製造した東京電気(株)をルーツに持つ企業。


出典) 工房遊次

東芝 20-TC

 ブルースター の面影を強く残した計算機。
 桁数:置数10桁×左ダイヤル11桁×右ダイヤル20桁。
 寸法: 347(W)×234(H)×152(D) o 。
 重量: 7.9 kg。
 製造年は1960年代の終わりから70年代の初め頃と推測。




Brunsviga

 機械式計算機の代表的なメーカー。
 1874年ロシアのオドネルは十進装置、置数装置、文字繰装置をドラムを用いた今の機械式計算機の原型を作ることに成功したが、ドイツのブルンスビガ社は1892年にオドネルよりこれらの特許を買取り、大量の機械式計算機を市場に送り出した。

Midget

 この Midget は、ドイツではModel M という名前で1908年から1927年にかけて販売されたものであり、米国ではMidget という名前で革張りのケースに入れ販売された。当博物館の Midget は米国コネチカット州のディーラーから購入したものである。

 ところで、タイガー計算機の創始者である大本寅治郎は、1923年に機械式計算機を完成させ「虎印計算器」として販売を開始するが、その最初の機種のデザインはこのMidget と酷似しており、計算機の開発に際しこのMidgetが参考にされたと推測される。


出典) 工房遊次

13R

Brunsviga社で最も生産台数が多かった 13RK の先行機種とみられる。


Walther

 ドイツの拳銃メーカー。機械式計算機も製造販売した。

WSR 160

落ち着いたボディーカラー、滑らかな曲線美、レバーを右側に集中するなど計算し尽くされた機能性が特徴。
色は、このパピアグレイのほか青みがかったグレイとグリーンの3色がある。


Facit

 FACIT はスエーデンのメーカー。
 創生期にはオドナーの特許を購入し製造したとされているが、すぐに「オドナー形式」を改良し、独特の「10キー データセット」方式を開発した。この方式は構造上密閉が可能で、静粛性に優れていたことから市場に受け入れられた。また、電動式計算機も多数製造した。


出典) 工房遊次

CM2-16

外装が金属製(アルミ系ダイカスト)の強固な計算機。


Contina

 クルタ計算機はユダヤ系オーストリア人のクルト・ヘルツシュタルク(Curt Herzstark)が発明した世界で最も小さい機械式計算機である。
 彼はユダヤ系ということでナチスにより収容所に送られたが、収容所においてこの計算機のアイデアを完成させた。
 戦後,リヒテンシュタインの皇太子がこの設計に興味を持ち,コンティナという国営企業を設立し、「クルタ計算機」という名前で全世界に製造販売した。

 クルタ計算機は最初の型(CURTA)とその後継機(CURTAU)が発売されたが、そのメカニズムは基本的に同じで、両者とも11桁の計算が可能である。
 インターネットで調べると、CURTAは1947年から1970年にかけ約8万台、CURTAUは1954年から1970年にかけ約7万台が製造販売されたとのことである。

 非常に独創的なメカニズムを持った機械式計算器で、電卓が市場を席巻した今でも愛用者が世界中に多数存在するすばらしい計算機である。 

CURTA

 1947年から1970年にかけ製造販売されたもので、約8万台が出荷されたとされる。当博物館の所蔵品のシリアルNoは、56101であり、これは1963年9月頃出荷されたものであるとのことである。非常にきれいな状態であるが、残念なことにクリアレバーが折れている。






Photo courtesy : Ms.Misa Kotoya

CURTA U

 1954年から1970年にかけ製造販売されたもので、約7万台が出荷されたとされる。メカニズムは基本的にCURTAと同じで11桁まで計算できた。


Monroe



パンフレットの写真

モンロー電動計算機 (Monroe)

電動計算機は手動式計算機にモーターを付け、計算作業を簡略化したもの。
電動計算機が代表的なものとしては米国モンロー社の電動計算機がある。
日本では丸善が総代理店になり輸入された。

Model価格機能
LA-5-200\252,000自動除算装置
LA-6-200\308,000自動乗・除算装置
CS-10\252,000自動除算装置
CST-10\280,000自動除算装置
CSA-10\356,000自動乗・除算装置
CAA-10\420,000全自動装置


モンロー電動計算機のパンフレット

Friden


STW-10型

標準型 全自動式電気計算器
全自動式電気計算機





SRW型

全自動式電気計算器
平方根展開機能が付いた。





ACG型

全自動式電気計算器
キヤリージ内の任意の箇所で自動的に四捨五入を行うことができる。






SW-10型

自動式電気計算器






DW-10型

準自動式電気計算器






Burroughs


Sensimatics






Olivetti



Photo courtesy : Mr.Toshifumi Yamamoto

Tetractys 24 (Olivetti)

1956年頃発売されたイタリアオリベティ社の電動計算機。
一風変わったデザインをしているが、これと同型の Divisumma 24 はMOMAの永久所蔵品に選定されている。
外見とは異なり内部は非常に複雑な構造となっている。
デザイナーは Marcello Nizzoli。イタリア製。


Ricomac 211 (RICOH)