1 黎明期 (電子式計算機の開発)


1−2 世界で最初の電卓
 世界で最初の電卓は1963年イギリスのBell Punch and Sumlock-Comptometer 社が開発したAnitaといわれている。
 この電卓は機械式計算機の歯車を真空管に置き換えた形をしており、図体は極めて大きく、重量も16キロもあり、なおかつ非常に高価だった。しかし、電子式のため機械式のような騒音が出ることなく、かつ計算速度が速いことから大きな反響を呼び、その後の電卓開発のきっかけとなった。

 また米国では同じ時期Friden130が発表された。これはディスプレイにCRTを使用したものであった。






1−2 日本のメーカーの取組
 Anitaに刺激され、日本のメーカーも本格的に電卓の開発にとりかかり、1964年には各社がいっせいに電卓を発表する。3月にはシャープとソニーが最初の電卓をCS-10AとSobaxを発表し、5月には大井電気とキャノンが晴海で開かれた第28回のビジネスショウに最初の電卓 Aleph-zero と Canola 130 を発表した。これらは、Anitaとは違い計算回路にトランジスタやダイオード、パラメトロンという素子を使った世界で最初の電卓であった。

 一方、14-Aなどリレーによる機械式計算機で市場をリードしていたカシオはあくまで機械式計算機にこだわり翌年5月新型のリレー式計算機Casio 81を発表したが失敗に終わった。これによりカシオも電卓分野への進出を決意し、1965年10月に最初の電卓 Casio 001を発売する。


電卓市場への参入状況
発売年

1963年以前
カシオ14-A
サムロック・コンプトメーター(アニタ)
フリーデン(EC-130)
大井電気(アレク・ゼロ)
64
シャープ(コンペット)
キャノン(キャノーラ130)
65
カシオ(001)
東芝
ビジコン(ユニコン)
66
鳥取三洋電機
リコー(リコー・アレフゼロ)
ブラザー
67
日立(ELCA)
ソニー(Sobax)
信和ディジタル機器
内田洋行
68
ゼネラル
日本コロンビア
伊勢産機
栄光ビジネスマシン
精工舎
69


立石電気
横河ヒューレット・パッカード
日本通信工業
シチズン
松下通信工業
不二商
70
タイガー


2 LSIの導入



CS-20A



QT-8D



MOS-LSI

 1964年に開発されたシャープのCS-10Aは、トランジスタを530個、ダイオードを2300個使用しており、重量は25kgと極めて重く、価格も当時の価格で50万円を超える非常に高価なものであった。電卓を小型化し、価格も引き下げるためにはトランジスタに代え当時の最先端の技術であったICやLSIを電卓に搭載する必要があった。

 こうした中で他社をリードしたのがシャープである。シャープの電卓開発の主導的役割を果たしたのが当時シャープの専務であった佐々木正である。彼は1964年すなわちシャープが最初の電卓CS-10Aを制作した年に神戸工業から専務としてシャープに入社し、次々と新しい電卓の開発にたずさわった。彼は頭の回転、行動のスピードが非常に速く、世界中を飛び回っていたので「ロケットさん」と呼ばれた。

 シャープはまずCS-10Aを改良し、1966年テンキータイプの電卓CS-20Aを制作し、また、同年世界初のバイポーラ型ICを使用した電卓CS-31Aを、翌年MOS型ICを使用したCS-16Aの開発に成功する。

 その後、シャープは計算機をより小さくかつ安くするため目標をMOS型LSI使った電卓の開発におく。しかし、当時MOS-LSIを作るには非常に高度な技術を要する上、需要がどれくらいあるのかわからないことから国内ICメーカーはシャープの要請に応じようとはしなかった。1968年佐々木正は渡米し、フェアチャイルド、テキサスインスツルメント、AMI、ナショナルセミコンダクター、RCA、ウェスティングハウス、シルバニアといった多くのICメーカーに生産を依頼して回った。しかし当時米国メーカーは利益率の高い軍との取引に力を入れており、量は莫大でも利益率の低いシャープの提案を受けようとはしなかった。あきらめて帰国しようとした佐々木に手を差し出したのはロックウェル社のアイストン社長である。ロックウェル社はシャープの提案を受け入れ、3百万のLSIを3000万ドルで供給する契約を結んだ。

ロックウェル社は当時宇宙開発に力を入れており、こうした高度なデータ制御技術を電卓の設計に取り入れることでシャープは1969年世界で最初のLSI電卓QT-8Dを制作することに成功した。QT-8Dは大ヒットし、両社に莫大な利益をもたらした。

この成功を目の当たりにした日本の電卓メーカーと米国のLSIメーカーはLSI電卓の重要性を認識し、お互いパートナーを模索し、LSI電卓の時代が到来した。


1971 vintage magazine ad.


LSI電卓 QT-8Dへの歩み

year
機種名
Name
特徴
Characteristics
大きさ
Size
(W-D-H)(mm)
重量
Weight
価格
Price
部品
Parts
1964
CS-10A
世界初のトランジスタ計算機
World's first all trangister calculator
420-440-250
25kg
\535,000
トランジスタ530個、
ダイオード2300個
530 trangisters, 2300 diodes.
1965
CS-20A
シリコントランジスタ計算機
Sylicon trangister calculator

16kg
\379,000

1966
CS-31A
世界初のIC(バイポーラ型)計算機
World's first IC (Bipola type) calculator
400-480-220
13.2kg
\350,000
IC28個、トランジスタ533個、
ダイオード1549個
28 ICs,533 trangister,
1549 diodes.
1967
CS-16A
世界初のIC(MOS型)計算機
World's first IC (MOS type) calculator


\230,000
IC56個
56 ICs.
1969
QT-8D
世界初のLSI計算機
World's first LSI calculator
135-247-72
1.4kg
\99,800
LSI4個、IC-2個
4 LSI, 2 ICs.


3 ポケット電卓の誕生



Pocketronic
3−1 カルテクの開発
 電卓が普及する中で、各社はこれを胸ポケットに入る大きさまで小型化できないかとの模索した。特に熱心だったのはテキサス・インスツルメント社である。TI社の社長パトリック・ハガティは自社が得意とするICを一般商品の分野まで拡大したいと考え、当時開発研究所の所長で集積回路の発明者であったジャック・キルビーにポケットサイズの電卓の開発を依頼した。キルビーの指示を受け実際電卓の開発プロジェクトを指揮したのはジェーリー・メリマンである。メリマンは、1965年から研究を開始し、1年半後の1967年3月に世界で最初のハンディタイプの電卓カルテク (Cal Tec )を完成させる。
 カルテクはディスプレイがなく、入出力はサーマル・プリンタにより感熱紙に印字するタイプの電卓であった。1534個のICを搭載し、ニッケル・カドミウム電池を搭載、1回の充電で約4時間使用できた。縦13センチ、横10センチ、高さ4センチ、重量約640g。弁当箱くらいの大きさであった。
 しかし、カルテクは試作にとどまり、生産、販売されることはなかった。これは、この開発が、ICの応用性を顧客に示すことでICの民生分野の販売拡大を目指していたこと、また、ハガティはポケットタイプの電卓をめざしており、カルテクではまだ大きすぎると考えたためである。ハガティはさらに開発チームに対し、ポケット型の電卓を6ヶ月以内に開発するように指示した。しかし、TI社が実際にポケット電卓を発売したのはそれから6年後の1973年である。

3−2 ポケトロニックの発売
 カルテクに刺激を受けたのがキャノンである。キャノンはシャープに対抗するため、カルテクの設計図を買い取り、改良を加えポケトロニックという名前で1970年10月日本で、1971年2月米国で販売を開始し、大人気を博した。これが製品として市場に出回った最初の携帯型電卓である。ポケトロニックはカルテクと同様表示管を持たずサーマルプリンタを搭載していた。しかし、実際の設計では、キャノンはいくつかの変更を加えた。このうち最も大きな変更はLSIだった。カルテクはバイポーラ型ICを使っていたが、ポケトロニックではMOS型IC仕様に設計変更されている。


LE-120A



Executive



HP-35



TI-2500
3−3 ポケット電卓ビジコンLE-120Aの登場
 ポケトロニックは世界で最初に市場に出回った携帯型電卓であるが、ICを使っているため実際ポケットに入れて持ち運ぶには大きくかつ重く、ポケット電卓とはいえなかった。
 世界で最初のポケット電卓は1971年に発売されたビジコン社のLE-120Aである。
 ビジコン社はインテル社との間でマイクロプロセッサ4004を共同開発したことで有名だが、これと平行してポケット電卓を開発するため、1970年からモステック社との間でワンチップ電卓用LSIの共同開発を進めた。モステック社は、テキサスインスツルメンツ社のMOSテクノロジー・ディビジョンからスピンアウトした14人の若者が作った会社で、当時イオン注入法という最新技術を採用し大きな成果をあげていた。開発に当たってはビジコン社は論理部分を担当し、同社の製品であるビジコン120をシュミレーターにして開発を行い、それをモステックがワンチップLSIにした。野心的な若者たちの必死の努力により開発は着手からわずか6ヶ月で完了した。このチップを搭載することで、ビジコン社は1971年には当時としては驚異的な小ささの手のひらサイズの電卓「ビジコンLE−120A」を発売することに成功する。これが世界最初のポケット電卓である。
 1972年には、英国シンクレア社がテキサス・インスツルメント社の開発したワンチップLSIを使いExecutiveという電卓を開発した。ExecutiveはLE-120Aよりさらに薄く、常時ポケットに入れて持ち歩く「手帳型電卓」の走りともいうべき電卓であった。


4 価格競争 - 大衆電卓の登場




Casio Mini



EL-120
4−1 価格競争の激化
 ワンチップLSIの開発は、電卓製造過程において部品点数の大幅な削減を通し電卓の小型化、ポケット電卓の実現に大きな役割を果たした。しかし、それだけではなく、ワンチップLSIを利用することで、町中の小さな工場で電卓を作ることを可能にした。その結果電卓の製造に次々に小さな会社が参入し、電卓の価格競争は一気に激化した。

 1971年オムロンもワンチップLSIを使い49,800円という当時の電卓の価格相場の半額程度でデスクトップ電卓Omron 800を売り出し大きな反響を得た(「オムロンショック」)。その後、シャープや町工場の信和ディジタルからも次々4万円程度の電卓が発売されるようになる。

4−2 カシオミニの登場
 こうした激しい価格競争が続く中、1972年8月にカシオは12,800円という当時の相場の3分の1の低価格でカシオ・ミニを発売した。カシオの強力な宣伝効果も加わり、カシオミニは爆発的なヒットとなった。販売台数は、発売後10か月で100万台、3年で600万台と爆発的な売り上げを記録した。かって会社に1台、職場に1台しかなかった電卓はカシオミニの登場により1人が1台を持つ時代に突入した。カシオミニは電卓の価格の大幅な低下を通じ、個人向けの新たな電卓市場を作り出した「大衆電卓」の先がけになった電卓である。

 価格の低下は新たな需要を作り出す一方、価格競争についていけない企業を輩出させた、電卓の低価格化により多くの企業が市場を奪われ倒産したり、電卓市場からの退出を余儀なくされた。


Casio Mini の生産風景


5 液晶電卓の登場と薄型化競争




EL-805
5−1液晶電卓の登場
 1972年8月発売されたカシオミニはライバル企業にとって非常な脅威となった。当時業界のリーダーであったシャープも窮地に立たされた。
 この窮地から脱出すべくシャープは2つの対抗策をとった。一つは価格面でカシオミニに負けない低価格の電卓を発売することであり、翌年価格が9900円の3桁電卓EL-120を発売した。これは1万円を初めて切った最初の電卓である。二つは価格ではなく高付加価値の新しいタイプの電卓の開発である。1973年、1年半の開発期間を経てシャープは新しい電卓 EL-805 を発売した。これは"COS-LCD"タイプの電卓である。COSはCrystal-on-Substrate若しくはCalculator -on-Substrate の略で1枚のガラス基板上に、表示、回路、キー接点等全機能を一体化したものであり、当時非常に高度な総合技術が必要とした。
 EL-805は、世界で始めてCOS-LCD を活用することにより単3電池一本でなんと100時間も使用することを可能にした。価格は26800円とカシオミニに比べると高かったが、電池寿命を考慮するとこの価格差は消費者にとって納得できるものであった。実際EL-805は爆発的なヒットとなった。EL-805の開発の成功により、シャープは電卓業界のリーダーの地位を確保し続けることができた。

 液晶電卓は、電気の消費量が蛍光管電卓と比べ極めて少ないことから、携帯の多いポケット電卓を中心に導入が進み、蛍光管タイプの電卓は急速に市場から消えていった。

 このころになるとほとんどのメーカーが市場から退出し、電卓市場は寡占化が進んだ。1971年当時では、日本事務機械工業会加盟の電卓メーカーだけで約20社、アウトサイダーを含めると40社を越していたが、このうち20数社が、厳しい価格引下げ競争に耐えられず、倒産したり、撤退したりした。電卓市場のシェアの8割はカシオ、シャープが占め、他のメーカーは思い切った縮小の中で守りに徹せざるを得ない状況になった。こうした中で、シャープとカシオの技術競争、シェア争いは一層激化していった。



電卓の薄型化のカシオとシャープの競争 (Thinness battle between Casio and Sharp)


LC-78



SL-800

5−2薄型化競争
 液晶電卓EL-805の開発に成功したシャープは、液晶技術をもとに薄型電卓の開発に力を入れた。1975年に厚さ9ミリの手帳タイプ電卓EL-8010を発売した後、1975年には厚さ7ミリのフイルムキャリア電卓EL-8020を、1977年には厚さ5ミリのボタンレス電卓を次々に発売し電卓市場をリードした。
 こうしたシャープの攻勢に対して、カシオは手帳型よりさらに小さい名刺サイズ電卓ミニカードLC-78を開発して対抗した。シャープの手帳型電卓はポケットに入れることはできるが、これをポケットに入れると他の物をポケットに入れることができなくなる。名刺サイズにすることでほとんどの人が電卓を携帯しているという感触を忘れることができる。カシオの開発スタッフは名刺の大きさ、液晶表示、メモリーつきで携帯に便利な軽さの電卓の開発にあたったが、薄さも当時最も薄かったシャープのボタンレス電卓EL-8130の5ミリを下回る3.9ミリを実現した。このミニカードは1978年の円高不況の真っ最中に売り出されたにもかかわらす、爆発的なブームを巻き起こし、注文が工場に殺到した。カシオミニがピーク時で月産20万台だったのに対し、LC-78は月産40万台に達した。こうしたヒットに対抗し、各社もいっせいに名刺サイズの電卓を発売するが、シャープも半年後、ボタンレスで名刺サイズの電卓EL-8140を出して対抗した。EL-8140は厚さ3.8ミリとLC-78と比べて、0.1ミリ薄く設定されるなどLC-78を非常に意識したものとなっており、また電源を切った場合でも情報を長時間記憶できるストレージ・コンピュータの機能がついていた。
 その後、電卓の薄型化競争は両社の面子をかけた争いとして激しさを増した。1983年4月にカシオは厚さ0.8ミリのクレジットカードサイズの電卓SL-800を発売する。SL-800はあまりに薄いことから、持ち運びには折り曲がらないよう返って神経を使わなければならなかった。この電卓は、20年にわたる電卓の小型化、薄型化の流れの終着点ともいうべき電卓であり、現在MOMAの永久保存品として保管されている。



CQ-1
5−3 複合電卓
 電卓の技術的制約や価格面での制約がなくなる中で電卓メーカーは新たな市場開拓を余儀なくされた。とくにカシオは電卓の高付加価値化を図る観点から「カシオミニ」のヒット以降、複合電卓の開発にも力を入れた。その中の一つが1976年に発売した時計と電卓を組み合わせた複合電卓CQ-1(愛称「でんクロ」)である。でんクロは電卓機能とアラーム機能を合体させることにより学生やビジネスマンのみならず家事にも使われ、電卓の新しい需要を開拓した。またカシオは電卓の利用層を拡大する観点からゲーム電卓についても力を入れ様々なゲーム電卓を発売した。
 これに対し、シャープも複合電卓やゲーム電卓を発売するが、シャープはカシオと比べビジネス関連分野や液晶関連製品の開発に力を注いだ。



ZERO
5−4 デザイン電卓
 電卓開発に各社がしのぎ削り開発に取り組んだ結果、電卓に必要とされる技術は完成し、電卓はもはや大企業にとって魅力のある商品ではなくなった。日本のメーカーで電卓製品を作り続けているシャープ、カシオ、キャノンなども生産工程を中国など海外に移してしまい魅力的な製品をほとんど生産しなくなってしまった。
 こうした中、LEXON社などヨーロッパを中心とした一部の企業では電卓をデザインの面から見直し、人々に愛される魅力的な電卓を生み出している。
 かって事務所の真ん中で無愛想な馬鹿でかい図体をさらしていた電卓が人々の生活の最も身近なところで気軽に使われ、洒落たデザインで人々の生活に潤いを与える存在となっている。こうした電卓を生み出すための先人の払った努力に感謝するとともに、今後人々に広く受け入れられる新しいコンセプトの電卓が登場することを期待したい。


シャープとカシオの電卓競争
1957年6月Casio14-Aリレーデスク130kg485,000yen
1964年3月SharpCS-10Aトランジスタデスクトップ25kg535,000yen
1965年9月Casio001トランジスタデスクトップ17kg380,000yen
1967年3月SharpCS-16AICデスクトップ13kg230,000yen
1969年5月CasioAS-1ICデスクトップ6.8kg110,000yen
1969年8月SharpQT-8DLSIデスクトップ4kg99,800yen
1972年8月CasioカシオミニLSIハンディ350g12,800yen
1973年5月SharpEL-805COS-LCD 電卓ハンディ(液晶表示)厚さ20mm26,800yen
1974年11月CasuiパーソナルミニLSIハンディ
5,800yen
1975年4月SharpEL-8010
手帳タイプ厚さ9mm9,900yen
1975年12月CasioバイオレーターLSIハンディ
7,500yen
1976年3月SharpEL-8020フィルムキャリア
厚さ7mm7.500yen
1976年11月SharpEL-8026
太陽電池厚さ9.5mm2,4800yen
1976年12月CasioCQ-1
クロック+電卓
14,000yen
1977年5月SharpEL-8130
ボタンレス厚さ5mm8,500yen
1977年5月CasioLC-81
ポケット厚さ8mm6,800yen
1978年1月CasioLC-78
名刺サイズ厚さ3.9mm6,500yen
1978年6月SharpEL-8140

厚さ3.8mm7,000yen
1978年11月CasioLC-79
クレジットカード厚さ2mm5,900yen
1978年11月CasioLC-785
名刺サイズ厚さ3.9mm4,900yen
1978年11月SharpEL-8139

厚さ3.8mm4,900yen
1979年3月Casioメロディー80
ポケット厚さ7.9mm9,500yen
1979年3月SharpEL-8152

厚さ1.6mm7,900yen
1983年4月CasioSL-800
クレジットカード厚さ0.8mm
5,900yen
1984年12月SharpEL-900
クレジットカード厚さ0.8mm7,800yen

資料)岡野宗彦著「カシオ計算機」朝日ソノラマ他により作成