ソーバック開発の思い出
山本照男

 計算機プロジェクトは、順調に動き始めた様に見えました、量産する為の技術を確立しなければなりません。
それはモジュールです、厚木工場で作られている黒い色のモジュールが、どうも不安定なのです。
研究部2課の人達が、総掛かりで問題解決に当たっていました。
試作を作り、実験し、厚木え行き、かなり時間を掛けていましたが、大変な仕事でした。モジュールの中の回路、フリップフロップからゲート回路まで、色々と改良を加え実験を繰り返しても、なかなか解決には至りませんでした。
そんなある日、リーダーの村本さんが相談に来ました、それは、「いまモジュールに使っている、黒色の樹脂に問題がありそうなので、新しい樹脂を使って見ますが、厚木工場えの根回しを、お願いします」との事でした、やはり樹脂の温度に対する不安定さだったようです。
半導体の部品でも、その回路を包んでいる樹脂まで、考えなければならないのです。
そして、厚木工場に対する根回しも仕事のうちなのです。
その後、赤色の樹脂を使って造った物が、性能も安定して赤モジュールとして完成されたのです。

 次の問題は、高密度実装でした。
此の計算機で、最も技術革新が、広く他の商品にも波及した技術革新は、高密度プリント基板でした。
プリント基板の両面に配線を作り、部品の実装する部分の密度を上げるのです。これは俗に言うリャンメン基板で、表と裏の配線をスルーホールという技術で、繋ぎ合わせて行くのです。
何が難しかったかと言うと、此の技術はもう、化け学の世界で1・6の厚さの、エポキシ樹脂に、直径1ミリ程度の穴を開け、その内部に銅を抽出し、その上に半田もしくは金を、メッキの手法で繋ぎ合わせていくのです。
此の技術は、始まったばかりでメッキも密度も穴開けも、そしてコストも高いという事であまり使われていませんでした。メイコウプリント・山本製作所・東洋プリント・目黒プリント・アビオトロニクスなどなど、その当時としてはかなり高い技術をもっている会社ばかりですが、コストも含めて全て我々の仕様に合わなかったので、最後はソニー羽田工場で作ることになったのです。
しかし、此のスルーホール技術は、その後素晴らしい発展をして現在では、コンマ数ミリのスルーホールも出来ますし、6層とか7層の基板でも出来るようになりました。
又それ以上にLSIが、素晴らしい世界を作り出しています、波及技術の完成度とその広がりの大きさは、目を見張るものになってきました。
面白いエピソードを紹介しますと、表示管をプリント基板に取り付けなければならない、機構うになり、安易に考えて半田付けしたのですが、世界え送り出す梱包方式でやって見たのですが、ほとんどガラスチューブが破壊してしまいました。
これをクリアーするには、外装を倍の大きさにしなければならず、梱包コストが高額になってしまいます。
こんな余計なことで、頭を悩ますなんて…………と考えるのは大間違で、此の事も解決しなければならない大問題だったのです。
そんな事で、毎日悩んでいた時、ふと気が付くと妻が、生まれて半年ぐらいになった長男の、おむつを換えていたのです、そのカバーを止める所に使われていた、ベルクロハァスナーという樹脂で作られている止め用具が、ピンと来たのです。
早速、基板とチュウブの接続部に使ってみますと、見事にショックアブソーバーとなって問題が解決したのでした。

 そんな、こんなで、やっと全ての部品からケースまで、生産目標も決まり、いよいよ量産試作500台えと進む事になりました。
そして、盛田副社長から「ソバックス」という商品ネームも付けてもらい、又ハンデータイプだから、取っ手を付けなさい、という事で電卓としては始めて、取っ手が付いたのです。ソニーの算盤(アバカス)という意味で「ソバックス」となったのです。
此の辺の所が、ソニーのソニーたるゆえんだと思えました。
こんな時、研究部の課長と、全重役との談話会がありました。
談話会といっても、研究テーマの説明と、重役の勉強会といったところでした。
確かに、1課から7課まで、テレビ・ブラウン管・磁気記録そのほか絵と音に関する新しい開発に関しては、皆けんけんがくがくの話し合いでしたが、昼食にカレーライスを食べて、私と河本課長の番が来たのは3時ごろの最後でした。
計算機からデジタル技術と、私は事務機は、読・書き・算盤といって、算盤は出来ましたので、次ぎは書くことで、ワードプロセッシングの研究開発が、重要なテーマとして是非お願いします、と言ったのですが、反応してくださったのは、井深社長だけでした。
私は此の頃から、ソニーの重役陣に、何か違和感を感じていました。

 電卓、ソバックスも卒業の時がきて、大きな世界えの船出です。

 生産ラインも、厚木工場と決まり、いよいよ本腰が入り始めました。
厚木工場は半導体、つまりトランヂスタ・モジュールの製造工場でしたから、女子製造要員は3000人からいましたので、ラインを作るのはお手のもんでした。
しかし、河本課長は大変です、厚木と研究部の掛け持ちで、私に製造のリーダーとして、厚木工場え行ってくれませんか、と言われたのです。
まあ、仕方がないかと思っていますと、急に岩間専務からお呼が掛かったのです。
これまであまり関係のない、岩間専務からのお呼び出しとは何にか?恐る恐る専務室え行きますと、開口一番「商事え行って、販売企画をしてください、計算機を売った事のある人とは、一人もいないから全国え売れる様な企画を作りない」と言われたのです。
「はい」と言ったのですが、研究部の植村部長と、プロジエクトの河本課長にも何の前触れもなしでした。
すると、私の困ったような顔を見て、直ぐに言葉を継いでくれました「研究部ぶと兼務で、1年間の出向ということにしよう」という事になってしまいました。

 ダイレクトセールス、これはソニー商事としては始めての事だったのです。
それまでの販売方法は、商事から全国の支店を通して夫々の電気店、又はソニーショップ等で売っていたのです。
ソニー商事の人達が、直接お客様のところえ商品を持って、販売に行くということはなかったのです。
そして集められた、10数名の人達はかなり個性の強い、力の有る人達でした、見方によっては組織の中では、少し窮屈な人達だったようです。
先ずは、自分たちの売る商品がどんな物で、どんな素晴らしい機能を持っている商品なのかを、学習しておかなければなりません。
そこで、山本学校を始めたのです。
私は構わず、2進方から始めて、加減乗除の仕組みから・部品のモジュール・デレイラインなど、かなり広範囲に話をしたのです。
全員が驚くと同時に喜んだのです、今までの商品知識は、ソニーは音が良いのです、絵が綺麗です、だけで売っていましたが、こんなに詳しく分かり易く教えてもらったのは、始めてだったので、本当に楽しかった、これからの販売に大いに役に立ちます、とのことでした。
5月22日、私の人生に於いて、最大の意味を持った日になる、ビジネスショーの開催の初日です。
その5日前の5月18日に、ソバックスの発表展示会がソニービルで行われました。
会場の壁際、左側に10台右側に10台のソバックスが展示され、表示管が灯々と輝いていました。
そして驚いたのは、エキゼキテイブ用の乗用車1台を、8階の展示場まで夜のうちにクレーンで吊り上げて設置し、社長さんが車の中でバッテリーでも使用出来ます。
「これも世界で始めてです」これは盛田副社長の言葉でした。
さすが大会社の発表会です、お金の掛け方が違いました。
10時少し前に会場のセットも終り、既にプレス関係・業界紙・外国報道など5・60名の人が集まっていました。
中央にマイクがが立ち、その少し後ろに2本のマイクが立っていました。
10時丁度、紹介と共に盛田副社長がマイクの前え立、その後のマイクの前え河本課長と私が立ちました。
最高の時間でした、汗と涙の傑作が世の中に飛び出す瞬間です、頭の中で考えた商品が、完全な形で世界中の人の目で見られるのです。
そして、エレクトロニクスだけでは無く、全ての開発技術者は、そのアイディアによる、物造りが完成する時、私も此の電卓を作った技術者として、最高の喜びでした。

 盛田副社長が発表文を読み、先発メーカーより2年遅れましたが、此の計算機は世界で、一番小さいポータブル型で、素子はオールICで構成されていて、バッテリーでも使える画期的な商品です。本当にソニーらしい電卓だと思います。
それに価格も26万円と買いやすく、この市場をリード出来る商品です。
ソニーは、テレビと磁気記録技術のテープレコーダーに計算機が加わり、3本の柱になりよりがっちりとした、商品形態を作って行くことができます。
何とも力強い、盛田副社長の話でした。
この後、記者から2・3質問があり、業界の事は私が答えて、とどこうり無く発表会は終りました。
午後から夜に掛けて、社内の部・課長と商事のお得意様、金融関係の人々による、内覧会が開かれたのでした。
私は会場の後始末を終わると、少し入った酒の酔いも手伝って、ふわりふわりと銀ぶらをして歩きました。
電卓開発の夢を絵がいて10数年、今はもう何のわだかまりもない、すっきりと晴れ渡った心が、銀座の風に揺れていました。

 再び訪れたビジネスショー

 42年5月22日、ビジネスショーの初日は、業界関係者だけの展示会でした。
晴海の会場は、もうかなりの人で一杯でした。
これまでの事務機の展示会で、新製品の発表は、ほとんどがドイツのハノーバーメッセ、だったので世界の関係者は皆、ハノーバーえと行ったのですが、今回のビジネスショー当たりから日本の、晴海え行けと言うことになったのです。
ここでも、電卓が世界を動かし始め出したのです。
10時からの式典が終わり、11時少し前に一番始めに我々のブースに来たのはキャノンの前田専務と山本課長でした。
「やあ、暫く、大変素晴らしい機械ですね」なんとも気まずいような顔をして、こう言ったのです。
「使い方を説明してください」キャノンの次期社長になった、前田専務が私に向かって、言ったのです。
私は丁寧に説明しながら心の中で、勝ったと叫んでいました、そして此の時を待っていたのです。
「とても使い良さそうな計算機ですね、ありがとう」と言って前田専務を始め、キャノンの人達は去って行きました。
こんな、勝ち誇った気持ちは一生に一度だらうと思いました。
午後は大変なことになりました、金井・市川氏を始めとして、タイガーからキャノン・ ソニーの人達から、全電気会社、事務機メーカーからカメラメーカーと、世界中の関係者が入れ代わり立ち代わり、押し寄せて来たのです。
2年前の、キャノーラの時よりも凄い感じでした。
そして此の2年間の間に、ほとんどの電気会社、東芝・日立・サンヨー・セイコー・オムロン・シチズン・ブラザー・シャープ・カシオの、各メーカーはほとんど真似をするか、デッドコピーの電卓を作ったのです。
その節操の無さ、アイディアの無さに呆れていました、せめてあのCCー1200の売り込みのあった時、なぜタイアップしなかったのか、何か割り切れない気持ちがしていました。
確かに、ソバックスの発売以来、凄い勢いで販売が伸びていました、と同時に電卓は小型軽量・IC化・安価えのスタートが切られ、ソニーに追い付け、追越せという開発競争が始まったのです。

 商事のダイレクトセールスが動き始めました、顧客は企業であり銀行・官庁団体等が主です。ですから台数も纏まり、支払いも確実なのです。
最初の頃、鈴木部長が驚いて「おい、山本さん、月末になると売掛金が、ぼんぼん振り込まれてくるんだ、これは凄いな」と言ったのです。
ビジネスマシンは顧客が企業だから当たり前なのですが、一般の電気屋さん相手では集金が大変な仕事になるとのことでした。
そして、ソバックスが思わぬ問題を持ってきたのです。
マイクロシステムにいた、小城君を始め、4・5名のセールスマンが、ソバックスを売る、新会社を作るから、後継人になってくださいと言うのです。
「キャノーラでは売れないので、商売になりません、何とかお願いします」と言う事なのです。
私は、何とも複雑な気持ちになっていました、私達には有り難い事ですが、キャノンの販売会社マイクロは大変なことになったのです。

 正に晴天の霹靂

 「山本さん、今夜、ちょっと話があるので、例の所で待っててください」と河本課長から声が掛かったのです。
それまでに度々飲みに行っているので、又いつもの愚痴話だと思って行ったのです、いつもの調子で、ぶつぶつ話しながら水割りが2杯目になった時、一枚の紙が私に渡されたのです。
そこに書いてある字を読んだとたん私は、「え!何ですかこれ」と言って河本課長の顔を見たのです。
そこには「辞表」と書いてあったのです。
河本課長は、まあまあと言いながら、「自分は、もともと自分の会社を作って、その会社で自分のやりたい仕事とをする事が目標だったので、その時が来たので………申し訳ないけど後をよろしくお願いします」とのことでした。
でも、「待ってください、今は未だその時ではないのではないですか、やっとソバックスも厚木で軌道に乗ったと言っても、まだまだ問題もあり、次の商品開発もあり、又、我々の研究部の事もあり、どうしてくれるんです」と言いたかったのですが、私にも2度3度と経験がありましたので、辞表が出た場合、なんだかんだと言っても、もう駄目なのです。
そして、河本課長がソニーを去った日、私は研究部えもどったのです。
しかし、その河本課長と意を同じくした永野・西岡君も退社して行ったのです。
研究部4課にいた人達の研究テーマから目標まで、私が督ることが出来るはづもなく植村部長に相談に行ったのですが、部長の話も何か上わっ滑りしていたのです。
何かが違っている、何かがおかしいと思っていたのです。
そんな事で悶々としていたところ、一月も立たないとき、研究部の課長会議があり、6名の課長が集まった所で、植村部長から「マコメ研究所」という新しい会社を設立し、そこで仕事をする事になりましたので、ソニーを退社します、と言う話しがあったのです。
何がどうなっているのですか、私があちこちえ飛回って働いているうちに、帰るべき家の中がめちゃくちゃになってしまった様な、気がしてしまいましたが、仕方無く課内の人の行く所や、自分の身の振り方を考えていたのです………
厚木工場え、本社の他課え移る人と、研究部の課を変える人、総ての処置が決まった後で私は、横浜の中央研究所の中に作られた、応用技術研究部4課え、7名の課員といっしょに行くになったのです。

(本稿はタイガー、キャノン、ソニーにおいて電卓の開発などに携ってこられた山本照男さまの著作の中から山本様のご了解を得て一部抜粋掲載したものです。)

著者職歴
山本照男
昭和6年6月8日新潟県に生まる。
昭和25年タイガー計算器販売株式会社入社
昭和36年クスダ事務機株式会社入社
昭和39年マイクロシステム販売株式会社(キャノン出向)
昭和40年ソニー株式会社入社研究部所属
昭和58年メルテック株式会社創設(その後プラザ合意による円高ショックにより、企業活動終了。)
現在に至る。